※本記事では引用時の原則に則り、主従関係を明確にした上で一部歌詞を引用する箇所がございます。
𝓗𝓪𝓹𝓹𝔂 𝓝𝓮𝔀 𝓨𝓮𝓪𝓻...(2回目)
皆様あけましておめでとうございます。
新春早々「作品」の話題となり、失礼します。
前回の後半で今年の抱負らしきものを書いたけど、このスタンスはコンテンツの受け手として書き残したいという欲求だけでなく、自分が作り手になる場合も想定してのことでした。
今回はずっと書きたかった、昨年の発表作について本編に盛り込めなかった部分を書こうと思う。キーワードは「ホーム」、そして秋元康楽曲です。
"MY HOME MADE" について
"MY HOME MADE" (2023)
形態:アートブック
A5,40 pages,簡易ドイツ装,貼り表紙
自身が生まれも育ちも東京であり、郷里としてのカントリーに憧れを持っていることから制作がスタートしました。本テーマのために制作した約40点の布製マスコットのアーカイブと、長めのステートメントで構成されています。
憧れを持っていると言いつつも、おそらく自分は本当に「田舎に住みたい」のではない。持っているのは森の中の小さなおうち、美しい湖畔、灯台、キルトをかけたおばあちゃんがクッキーを焼いて待っている、というようないくつもの理想が継ぎ接ぎ状に組み合わさった身勝手な理想像であり、言わずもがな家長制に支配された世界でもある。つまり「家の中の仕事」は対価によって支払われることがなく、女性が担当する(そのあらわれとして『クッキーを焼くおばあちゃん』ができる)。
しかし、手縫いのキルトや家庭料理が示すように「必ずしも生活に有用ではないもの」を一生懸命につくることは、あらゆる制作活動に通ずる行為だと考える。まさにこの「作品」自体が、特に有用になるかは分からないけど一生懸命作ったものだから。
そして「自分には『ルーツ』がないのかもしれない」とよくわからない劣等感はやがて、身近な「世界」に目を向ける力に変わっていく。誰もが古典的田園風景を郷里に持つわけではなく、いつも見る街灯の影や見知った街角の一つ一つに居場所を見つけ、それこそが私のホームである。
しかし、制作を進めるごとに「キメラ的」だと思っていたカントリー像はいつしか日常にふんわりとベールをかける美しい地図のようなものに変わっていきました。("MY HOME MADE" 本文より)
これが「長めのステートメント」部分の終着点でした。
無意識地図と「僕」
この「地図」の表現には元ネタともいうべき存在があります。それが記憶の底から引きずり出されてきた『鈴懸』の歌詞。
ある日角にあった コンビニがなくなって
曲がらないまま 過ぎてしまった
僕の無意識地図
『鈴懸の木の道で『君の微笑みを夢に見る』と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの』AKB48(2013,キングレコード)
ガチオタだから11年(11年?!?!?!?!?!)経った今でも暗唱できるんだけど、以下『鈴懸』で統一しますね。さすがにナゲエヨ。(愛、ゆえに・・・)
「ホーム」について考えるとき最初は先ほどのような「理想的田園風景」が浮かぶんだけど、次に思い出したのが急にぴかぴかに塗り替えられた近所の踏切の歩道橋のことだった。
歩道橋を駆け上がると、夏の青い空がすぐそこにあった
まさにそんな歩道橋が家のすぐ近くにあったのに、久しぶりに通りかかったら剥がれた塗料がピカピカの青色に塗り替えられていた。
もしかしたら今までも通っていたのに気づかなかっただけかもしれない。場所は何も変わっていないのに、あの時の夏の陽射しまで塗り替えられたような気がして悲しくなったのを覚えている。
誰も気に留めるそぶりを見せないのに、もう何もかもが変わってしまったような気がした。(本文より)
見知った風景が変わってしまったときに、逆説的にそこが「ホーム」だったことを思い出すのではないか。
『鈴懸』に出てくる「無意識地図」はそんな心の働きなのではないかと思う。地続きにはなっていないかもしれないけど、世界の至るところに自分の見知った風景が、質感を持って記憶されている。もうちょっと歩くとあの看板が見えてくる、この角を曲がると出迎えてくれる、といった具合に。
まあ・・・書いてみれば当たり前のことかもしれないけど、どこか遠くの “カントリー” を目指して始めたことが、近すぎてびっくりするような風景に終着したことが面白かったし嬉しかった。
この角 曲がったら
君がいると なぜかわかった
「僕」が「無意識地図」を張り巡らす不特定の一人称であるならば「君」はそれこそ街灯のような、非人称のオブジェクトでもいいんじゃないかと思ったりする。
これらはあまりに違ったカルチャーの畑から話題を持ってくることになるので作品本文中には持ち出せなかったけど(歌詞、ジャスラックとかめんどくせ〜いう気持ちもあり)。
角を曲がったところで待っている「約束された世界」というのはあまりに当たり前で、同時に奇跡のようなすばらしいことだと思った。
時の彼方へ
一方で、だからこそ塗り替えられた歩道橋のような小さな変化に敏感になるのだ、と再度結論づける。
...自分の中にあるいくつものシーンが積み重なって、目指すべき場所や帰るべき場所の指針になるのではないか
...だからこそ小さな変化に悲しさを覚えたり、ふとした瞬間に懐かしさを感じることがあるのだと思います。
(本文より)
もちろん歩道橋の例は一つの象徴であって、実際に何日も嘆き悲しむものではないけど、気づいたからには小さな痛みを無視することはできない。いろんなところで同じ原理が適用されるんじゃないかって思っちゃう。
しかし、森羅万象が全部ホームになるわけでもない。そんな神話的な考え方をする趣味はないからな。無意識とでも言うしかない、何か注意を引きつけるものの繰り返しがおぼろげな地図を作っている。
だから細部を見ようとすれば「あっ、この道ってこんなに短かったんだ」とか「春はいいけど夏はなんか違うな」ということが起こるだろう。俗に言う記憶補正ってやつ。
だから記憶がリアルである必要はなく、繰り返しの特別な思い入れ(どんなに小さな『注意』だとしても、今のところはこの言い換えが一番しっくりくる)が発生するならば、ホームとは究極的には「生まれ育った場所」でなくてもいいはず。
ただ「現前にはない風景」を切望するとき、そのパワーは思っている以上にすごいと思う。
僕らの知ってる街は
どこへ行ってしまったのだろう?
記憶を修正しながら
いつしか大人になってしまった
過去か未来か?
I was there
LOVE TRIP 君はどこにいる?
LOVE TRIP 会いたい
ずっと言い忘れたことがあるんだ
(『LOVE TRIP』)
これよ( ; ; )( ; ; )
失礼。またちょっとオタクの挙動が出てしまいましたね。
ラブトリはドラマ時をかける少女(2016年版)の主題歌として出た曲だけど、あれから8年(8でもえっ?!?!?!?!)経ってもずっと大好きな曲で。
元々一人称が圧倒的に「僕」な48楽曲において私が自己投影をしているように、「僕」と「君」の関係は必ずしも「恋愛関係における男女」でなくてもいいと考える。だからずっとアイドルが好きって言うと万年片想いお花畑女だと思われるのが気に食わなかったんだよな。ええ。牙を剥いていますとも。
まあ題材からして当然「恋」が最も近接したモチーフとして理解できるけど、ほんの一瞬、時空を超えてかつての風景に思いを馳せることはまさしく『LOVE TRIP』だと思う。
風景を思い出すことは場所と自分との関係を思い出すことであり、小さい頃にお気に入りの道だったとか、悔しかった帰り道にここから夕焼けが見えたとか、少なからず「僕」に意識が向く。
自分で書いておきながら、そんな美しい記憶の方が少ないし「補正」が効きすぎているような気がするけど、そこがいいんじゃないか!!!
もちろん受け止めきれないほどの強い感情ならばケアするべきものだけど、心に普段より少し強い印象を残す時こそ、自分が一番に気づいて守りたいと思っている。
恋はいつしか 上書きされていくもの
だけど最初の切なさ覚えてる
(『LOVE TRIP』)
様々なシーンの積み重なりやたくさんの変化を経験して景色がおぼろげになってしまっても、なぜか胸の奥がギュッとなる気持ちだけは忘れることがない。これからもどこかで経験するだろう。
これが私が『LOVE TRIP』を好きな理由であり、楽曲世界の力を借りながら「ホーム」について考えることの追記でした。
こういった個人的な見解による思い入れ(これぞ過大解釈でありクソデカ感情)は「作品」に対して邪魔になるので全部を注力することはできないけど、これは私だけの感情だ、これだけ「語りたい欲」を持てることはすばらしいのだ、とも思う。なんか魔王みたいな口調になっちゃったけど🥺🥺🥺
だからコンテンツの受け手と同時に作り手として、作品発表とは別の形でずっと書きたいと思っていた。読んでいただきありがとうございます。
アートワークとして興味が湧いたらぜひTumblrのリンクを見ていただければ幸いです。
では!あとは10年物オタクの私にまかせたぞ!
おまけ:夏よ、急げ!
僕は今日まで 後悔し続けている
自分の気持ちを 隠していたことを
好きと言えなきゃ 夏は終わらない
(『LOVE TRIP』)
↑ラブトリでは気持ちを伝えないと夏が終わらないことになっているのだが、
骨組みのできた海の家
完成する頃 好きだと言えるかな
夏よ 僕のため 急いでくれ!
『夏よ、急げ!』SKE48(2017,エイベックス)※アルバム『革命の丘』(2017)リード曲
↑『夏よ、急げ!』では気持ちを伝えないと夏が始まらないことになっている。どっちなんだよ。可愛すぎるだろ。
もうここはフリースペース(?)になったので余談中の余談になりますが、『夏よ、急げ!』のMV監督も中村哲平さんだったんだ😭😭😭😭
同じくSKEの好き曲『コケティッシュ渋滞中』『前のめり』のMVも監督されており、それだけでも嬉しいんだけど、パッチを始めエイトの映像作品&MVを多数手掛けているんだよね😭
数えきれないくらい見てきた『がむしゃら行進曲』と同じ監督だなんて。本当にありがとうございます。
ホームページのディスコグラフィー見てるだけで泣いちゃうから見てみて。すばりょのソロ活動にも関わっていたことがあるようで嬉しい限りだな😭
おまけ:センチメンタルトレインの行く先
2023年夏のAKB48大衣装展は本当に号泣&最高の展示でした。
ラブトリのお衣装😭帽子があるからセンターの指原衣装のはず。
キラキラの青に、ベルトについた思い出を大事にしまい込むような鍵。なんて素敵なのだろうか。
ここ2年の間にも秋葉原AKB48劇場で何回か倉野尾チーム4の『サムネイル』公演に入る機会があり、なるちゃんセンターの現代版ラブトリを見てだな・・・もう本当になんていいんだと思ったよね。
その話は長くなるので置いておくとして、今回書きながら「そういえば」とまた記憶の底から蘇ってきたのが、
田園地帯走る銀色の電車が
スピード落としたら (近づく駅)
曲の入りが「ホーム」のイメージに対して完璧な『センチメンタルトレイン』の歌詞。お写真は手前が歌唱衣装で後ろの黄色がセンター・松井珠理奈さんのMV衣装。
何もしない 何もできない日々は
センチメンタルトレイン
走り続ける
(『センチメンタルトレイン』)
例によって歌詞で語られるのは「恋」だけど、きっと銀色の電車はたくさんの切ない思い出を経験してまた次のホームへと走っていくのだろう。
遡るように “ホーム” を切望した先で、再び次の場所へ進むイメージに終着する。摂理というか、奮い立たせられる気がしたよね。
では!だいぶ脱線してきたのでここまで。